ネット上で誰かとすぐに触れ合えるって便利な世の中ですよね。
ネットと日常生活は切っても切り離せない状態。
私クラスになると、息をするようにキーボードが打てます。(笑)
しかし、
だからこそ、私たちはネットの発言には気を付けなければなりません。
私が子供の頃、大人たちが他人と汚い言葉で応戦し合って口げんかするところをみたことがありませんでした。
昔は今と違ってネットが普及されていなかったから、私の周りの大人と言えば学校の先生と親、祖父母ぐらい。
そんな環境で大の大人がクズだの、ゴミだの、○ね!と罵り合う場面に遭遇した人はほとんどいないでしょう。
また、小学生通しで喧嘩して汚い言葉を使えば親教師に怒られ、
「そういう言葉は使っちゃいけないんだ」
「学校の先生や親などの自分の周りの大人たちは暴言を吐かないな」
と自然と理解していったのだと思います。
しかし、
いつからか大人たちも(自分も大人の仲間入りをはたし)汚い言葉で罵り合うことを知りました。
特にスマホが普及し、SNSの人気に火が付き、2chまとめが大衆に受け入れられるようになってから、この流れは加速してきているように思えます。
だからこそ、子供たちだけでなく”大人たち”つまり時代を率先して生きる私たちにこそ「ネットリテラシー」は必要であると私は考えています。
特に私たちのような情報発信者は、
今後の活動の上でも気を付けなければいけないことだと自分を戒めるためにも
第二回のコラム、
ネットの発言のモラル、マナーを守ろう。「みんなが気付かないけど、会話より重要なネットリテラシーについて」書いていこうと思います。
目次
なぜ、人はバッシングを続けるのか?
人を叩くことで得られる、
優越感、達成感、充足感、満足感、・・・etc等。
いわゆる、「快楽」プラスの感情を求めて。
または、
不快感、嫌悪感、憎悪感、拒否感、拒絶感、抵抗感、忌避感、妬み、僻み・・・etc等。
といった、「痛み」というマイナスの感情を避けるために。
無意識的にも意識的にも人間は痛みを避け快楽を求める。
これを人間の行動心理学の基礎であると
精神学者のフロイトは、「痛みと快楽の原則」を定義しました。
つまり、
叩きたい対象に何かしらの痛みを感じ、
その痛みを避け快楽へとベクトル変換する結果がバッシング(誹謗中傷)
という行動に起因する。ということです。
ただ、ネットユーザー全員が全員バッシングで快楽を得るわけではありませんよね?
(そりゃそうだw)
精神の3階層構造
精神階層を3段階にわけると、
「イド(id)、自我(ego)、超自我(super ego)」の3つにわけられます。
聞き慣れない言葉でしょうし、まずこの3つを説明します。
イドは人の精神エネルギーの源泉にあたる部分で、
痛みと快楽の原理に基づき、本能的に行動を決定します。
(いらつき⇒気持ちよさ)
自我はイドの上位概念で理性的に、
痛みを避け快楽へとベクトル変換を起こす階層です。
(方法論=誹謗中傷)
超自我は常識的に物事を判断する階層です。
過去の経験や知識から自らの行動がどういった結果を及ぼすかを判断します。
(倫理観や道徳観の集合、コントローラーの役割)
3つの精神階層は、順に車、ドライバー、交通法のような関係で
超自我であるドライバーは交通法を認識し
痛み⇒快楽という車(イド)のアクセルを踏むか判断をする。
という構図になっています。
3つ精神階層から導き出される2つの結論
○ドライバーがそもそもに交通法を理解できない
(人を叩けば傷つくことを知らない)
○ドライバーが自分のことしか優先出来ない
(自分が気持ちよければそれでいい)
となります。
前者が許されるのは一般論では子供のみ。
善悪の判断というのは成長の過程で学び育むものであり、
私より上の世代というのは、
今のネットに感化されず育っているはずなので
人を叩けば傷つくということを理解できない大人はいないでしょう。
早い話が性悪説ですね。
(※逆説的に、性善説を主張するのであれば、
教育の過程に問題がある。とすると
バッシングが悪と認識される現状では矛盾が生じる)
後者は、
自分の行動はいけないことだと認識しつつも、
感情の起伏によって一時的に忘れてしまったり、
境界線の線引きが自己中心的故に、
「これぐらいは俺がむかつくんだから仕方ない」
と自分自身を納得させ正当化している。のどちらかでしょう。
感情を抑えることが出来ない人
こちらはさしあたって問題が無いように思えます。
対策が簡単だからですね。
ツイートボタンを押したり、コメントボタンを押したり、
ネット環境に接続できる媒体から目を背けてしまえば、
すぐにイライラした感情は収まり、正常な判断が出来ます。
個人的にはイライラしたら、
目を閉じるのが最強だと思っています。
なにより、こういった人達は
自分が悪いことをしていると自覚している点です。
きちんと自らの過ちを認めていますし、
人は誰しも感情に流されてしまう生き物です。
ましてほぼ匿名で書き込めるネット上ですし、
リミッターがガチャッと外れてしまうのも多少は仕方のないことだと思います。
自分を正当化している人
と、気付いてくれたらいいんですけどね。
ネットバッシングは日本でなく、
世界的にもブーム(youtubeの英語のコメ欄とかひどいですw)
なので、みんなやっているから(=社会的証明)
俺もやっても大丈夫。
みたいな空気感になってしまっています・・・。
人が人を叩くのは凄く簡単なことですよね。
論理による説得は必要ないから。
小学生でも出来ます。
例えば、
あら探しでも、揚げ足取りでも大丈夫。
「ブサイクが調子のんなよww」
とか、もう意味わかんないですよね。
アイドルや俳優じゃないんだから顔は関係なくね?っていう・・・。
他にも人のコメントに乗っかるだけとか、
説得力皆無だな~と思います。
(本人は説得させるつもり0でしょうけど)
周りから見た、叩く”彼ら”
上の画像はこちらのリンクからお借りしました。
(参考元:中学生がよくやるダサいファッションwww)
ネット上では発信する言葉1つ1つがあなたの印象を決めます。
リアルでいう、声、表情、見た目、態度。
これらがネット上では全て文字に集約され、あなたの印象を決めているのです。
この印象は叩きの対象だけじゃなく、
その周りの人(部外者)も当然見られているわけです。
同情して、同調してくれる周囲
周囲の人も、
「なんか一生懸命叩いてるし、可哀そうやな・・・。」
そこそこに関係があったり、
切りにくい関係だったりすると、
同情して同調してくれる方もいると思います。
「こんにちは~。今日はいい天気ですね~。」
「そうですね~。洗濯日和ですね~。」
リアルでいうこういう会話みたいものですね。
自分が叩かれることを恐れて同調してしまう
しょっちゅう「カス」とか「○ね」とか「ゴミ」とか、
発信している人は怖いですよね。
もし、自分にその矛先が向いて、
バッシングの対象になってしまったらどうしよう・・・。
そういった恐怖心から同調してしまう人もいると思います。
それとなく距離を置く人達
これが一番多いでしょうね。
ゴミ落ちてたら避けて歩くのとおなz
この人は関わったらやばい人だ
って感覚ですね。
「○○きもすぎ」とか、「○○まじうざい」とか、
リツイートもいいね!もされませんよね。
(※同じことしている人はしてますが…。)
画面の向こうで傷つく人達
おそらく彼らに、
「同じことをされたらどう思う?」
と返しても無駄でしょう。
彼らの判断基準は、
「俺がむかつくか、むかつかないか」なので、
そもそも議論になりません。
それにもしかしたら、
元素記号のCaが足りてないのかもしれない。
ただ事実として、傷ついてしまう人がいるんです。
議論にならない以上、
原因となる基準を気にしては仕方ありません。
「ネットバッシングはいじめと同様になくならない」
これは前提条件になってしまうでしょう。
多分、それは仕方のないこと
人間の本質と言ってもいいのかもしれません。
人は全ての時代において、
過ちを正し解決策を考え、
成長していく生き物です。
歴史を振り返ってもまさにそうでしょう。
核兵器という過ちから、
冷戦という考えが生まれたように
戦争という過ちから、
平和という考えが生まれたように
国の仕組みもエネルギー問題も同様ですよね。
それが人類が進化して、
個人の問題にまで細分化されている。
ただそれだけのことだと思います。
ネットの普及によって知らない人と触れ合う機会が増えた。
というのは、
そこまで人が進化を繰り返し、
自由に考えてもいい(自主性)を重んじるようになり、
統制という生物の常識から脱する段階まで来ている証拠とも言えますよね。
これが後100年早くネットのインフラが整っていたら、
本当に人類は人類によって絶滅してたかもしれませんよ(笑)
ですが、今の時代を生きる人たちは
100年前の人達より、遥かに優秀なはずです。
だから私はただ問いかけるだけで、
問題提起をするだけで、
考え直してもらえるように発信するだけで、
少しはバッシングが減ると思うのです。
それ以外は、それ以上もきっとできないと思います。
では、最後に自主性に問いかけます。
「SNSやブログでの発信する言葉の重みをもう一度考え直してほしい」
この記事を通じて、
一人でも多くの人が、
画面の向こうで嫌な思いをしなくなってくれたら嬉しい。
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